第6話
健一の子育てを通して、典子の健吾に対する気持ちは揺るがないものになった・・と思っていた。ところが昨夜久しぶりに源二と逢ったら、源二は典子に一晩でもよいから健吾の妻の立場を忘れてほしいという。源二の気持ちは意外に真剣だった。それならと源二を愛する演技をしてみたら、それは演技に終わらず源二を愛している自分を発見することになった。そのことを広子に話すと健吾との関係は典子自身で解決しなさいと言われた。一旦家に帰るというと、源二と少し話をしていきなさいと広子はいう。
階段を上がって源二の書斎に入ると源二が笑って迎えてくれた。
広子さんに話をしていきなさいと言われた。
そうか・・・今日は家に帰るのだな。
それしかないでしょう・・・ここに居る訳にもいかないじゃないの。
居てもいいけど・・・健吾君が怒るかな・・・?
・・・・・。
そうだよな・・やっぱり帰るところは健吾君のところだな・・・?
バカ・・・人を翻弄して無責任なことを言わないでよ。
まあ、ここに座ってと回転椅子をまわして典子の方に向き手を引いた。膝に腰かけて抱き合い、しばらくキスしていた。
あのね、広子さんが・・あなたとなにがあったのかと聞くの。
なんと答えた・・?
私が去年の夏に戻ったと返事をしたわ。
広子はなんと・・・。
それでいいというの・・。
そうか・・・。
でも私・・このことを健吾にどう説明したらいいのかわからない。
正直な気持ちを言えばいいよ・・・。
あなたを忘れられないと健吾に言うの・・・?
うん・・。
言えないわ・・そんなこと。
じゃあ・・やっぱり家に帰らないでここに居るか・・?
・・・バカ。
俺はそのほうがいいのだけれど・・・。
バカ・・・。
〈健吾と話をする〉
帰ると健吾と健一はまだ帰っていなかった。台所の椅子に座ると昨夜からの疲れが出た感じだった。眼を閉じると明け方の出来事が蘇ってきた。両脚を源二の体に巻き付け、腰をくねらせながら悶えた記憶が鮮明に思い出された。健吾に抱かれて涙が出たことなど一度もないのに涙まで出たと思った。体の芯に残る源二の感覚に浸っていると、見慣れた台所の景色がまるで違って見えた。どうしたらいいの・・・と思う。
気を取り直して夕食の支度を始めた頃に健吾と健一が帰ってきた。夏の山は大変だったでしょうと健吾に聞くと、健一はよく頑張った・・無理はさせなかったけどという。お水はちゃんと取ったのねと流しに向かいながら健一に聞くと、ちゃんと飲んだよという。疲れたでしょうお風呂沸かすから、健ちゃんはお父さんと一緒にはいってと言うと、僕がお風呂を洗ってお湯を入れると浴室に走っていった。元気になった健一の姿を見ていると、ようやくここが自分の家だったとの感覚がもどって来た。
二人が風呂を終わって夕食が始まった。テーブルでの会話は賑やかだが典子は溶け込めなかった。山行のことは適当に相槌を打ちながらも、須貝の家でのことが頭に浮かんでくる。健一が健吾と一緒に家を出た頃、自分はまだ須貝と裸で抱き合って眠りこけていた時間だったと思う。時々会話が素通りする。
どうした・・。
えっ・・・あっ・・なんでもないよ。
疲れたのか・・。
大丈夫・・。
雰囲気が違うと健吾に感じ取られたと思った。健一がお母さんはお仕事が大変だね、体を大事にしてねと言う。ありがとう、お母さんのことを心配してくれて・・・と返事する。またしばらく山の話になった。今日は川でお魚を釣らなかったけれどあそこにはまた行きたいと健一は言う。「今度はお母さんも入れてみんなで行こうよ」と言われてあわててうんと返事するのがやっとだった。
健一は元気そうに話をしていたがやがて時々眠そうな目になった。健ちゃん眠いのと聞くと、うん眠くなったという。寝室に連れて行ってタオルケットをかけると、健一はとろんとした眼をしている。頑張ったのね・・。僕は頑張って歩いたよ・・面白かった。 偉かったわね・・じゃあ、お休みと言うと、うんと返事するなり健一はすぐに眠った。
台所に戻って、寝た・・と言うと、すぐに眠ることが出来るようになったのは体がよくなった証拠だと健吾は言う。そうね・・・どんどん元気になっているみたい・・と返事して、典子はテーブルに座ってはじめて健吾と視線を合わせた。健吾が笑っていた。
・・・・。
お疲れのようでしたね・・。
・・・・。
そんなに疲れたか・・?
・・・・。
朝までだったとか・・。
広子さんから・・?
ようやく返事が出来た。健吾は笑っていた。笑いの意味が分からない。
ベッドのことは話したくない・・。
いいよ・・・お互いに話していないから。
でも・・健吾・・わたし去年の夏に戻ってしまったの。
社長をまた愛してしまったことか?それも広子さんから聞いた。
聞いたの・・? 私・・どうしたらいいのか・・。
それでいいじゃないか・・。
いいわけないでしょう・・。
何故・・・?
何故でも・・・。
俺と別れたいのか・・?
そんなことは思っていない。でも健吾に対する気持ちを説明できない・・。
じゃあ話は・・またにしようか・・。
いや・・いま一緒に考えて・・。
別れたいとは思っていない・・?
うん・・健吾とは別れたくない。
でも気持は説明できないのか・・・?
うん・・。
時間が経てばできそうか?
わからない。
じゃあ・・いつか説明してくれ。
でも・・。
心配しなくていいよ。
私のこと・・健吾はいいの・・?
典子の考えを聞いていないから・・いいのかと言われても。
状況は聞いているでしょう・・。
どういう意味?
だって・・・わたし須貝さんと・・。
明け方4時ごろまで抱き合って、また去年の夏のようになったのだろう?
・・・・。
それで・・?
どうしていいのかわからない・・。
それはちょっと変じゃないか・・?
どういうこと?
つまり社長に心を奪われるのはこれで二度目だ・・何か考えはあるだろう。
何かって・・?
自分の心を決める手がかりみたいなもの・・。
私が健吾から離れるなんて考えられない。
そうか・・しばらくはこのままで行くか・・?
このままでといわれても・・。
いいよ・・今日はもう寝よう・・。
・・・・。
何か・・?
健吾・・このまま話をせずに寝たら私達の仲が壊れそう。
そうはならないよ・・。
どうして?
俺が典子を好きだから・・・。
ほんと?
当たり前だろう。
本当なの・・?
嘘をついてどうする。
もう少し話をして・・。
何を話したらいいのかな・・?
広子さんから何か言われてないの・・?
典子が去年の夏に戻った・・とだけ聞いた。
それだけ・・?
それだけだけど・・。
本当にそれだけ・・?
逆に聞くけれど何か社長と約束したのか?
何も・・。
だったらしばらくはこのままでいこうよ。
健吾・・・何故そんなに冷静なの・・・。
そんなに冷静でもないけれど・・。
だってこんな時でも私を好きだといったでしょう。
心のままをいっただけだよ。
私が須貝さんに傾いているのに・・・どうして・・?
本当に傾いているのか・・?
わからない・・でも昨日ここを出た時の気持ちとは違う。
それぐらいだったらそれでいいよ・・。
昨日源二さんに会うまではあなたの妻という立場は崩さないつもりだったけれど、須貝さんから一晩だけでもいいから俺だけを想ってくれと言われて・・・。
それから夢のようなセックスになって典子の考えが崩れた・・。
・・・・・。
よく考えたら俺との間は希薄になっていることに気が付いたということか・・。
希薄になっているなんて・・・そんなこと考えなかったわ・・。
常識的に言えば社長と一緒になると考えるのが普通だが・・。
健吾と別れられるなら悩むことはないわ。
社長が一緒になろうと言ってくれない・・と言う訳か。
源二さんは冗談だと思うけれど、ずっと居ていいよと言ったわ。
ほう・・妻を二人置くのか・・。
バカ・・・冗談に決まっているじゃないの。
それでもいいという気持ちは典子にあるんだろう
そんな・・源二さんと一緒に住むなんて・・考えてもいないわ。
冗談だとしても社長は一緒にいてもいいというのだろう・・・・?
いやよ・・健吾と一緒にいたい・・。
俺と一緒にいて・・心は社長か・・?
ちがう・・健吾も好き。
やっぱり時間を置いて話し合おうよ・・。
健吾・・こんな私を理解できる・・?
急には理解できないが、典子に対する気持ちはむかしから変わらないよ。
嘘よ・・愛想を尽かしているでしょう・・?
俺は嘘をつかない。それは典子も知っているだろう。
・・・・。
俺の言うことを信じられないのか?
信じられたらどんなにいいか・・。
俺がでたらめを言っていると思うのか?
そんな・・そんなこと・・。
じゃあ信じろよ。
ああ、困った・・。
何が・・。
どうしたらいいか・・。
とにかく今夜は寝たら・・。
寝られない・・。
じゃあ・・朝まで話を続けるか・・。
健吾・・抱いて。
どういうことだ?
気持ちが・・どうにもならないの。
気持ちが・・・?
狂ってしまった・・。
まだしたいのか・・・?
・・・・・。
これから社長のところへ車で送って行ってやろうか。
何を言うのよ・・・・。
喜んで迎えてくれるよ・・。
いじめないで・・。
涙を見せてどうする。
健吾・・いじめないで・・。
いじめに思えるか?
健吾・・抱いて。
心に何かが引っかかっていたらできないと言ったのは誰だ?
健吾・・・いや・・。
ヤケ酒と同じだ・・紛らわせても現実は変わらない・・。
どうして私・・こうなったの・・?
知らないよ・・。
あぁ・・健吾が須貝さんのところに行くのを引き止めなかったからだわ。
人のせいにするな・・・自分から喜んで行ったじゃないか。
そうだけど・・・。
もう寝ろ。
いじわる・・。
こんなことをいじわるとは言わない・・。
筋道を通す典子がその夜はめちゃくちゃだった。結婚してから初めて見せた典子の混乱した姿にいささかあきれたが、その晩は健吾が冷静だった。寝室に移って布団を二つ敷いて寝た。すぐに典子は健吾の布団に移ってきた。健吾に抱き付いて胸に顔をうずめたが健吾は賢者のままだった。健吾・・抱いてとまたいったが黙って聞き流した。
朝は健吾が先に起きた。典子を寝かしたままで炊飯の準備をしているところに典子が起きてきた。ごめんなさい・・といいながら朝食の準備を始めた。よく眠れたかと健吾が聞くと、なにかいろいろな夢を見ていたような気がするという。
昨夜話したことを覚えているか? わすれた・・。
わすれたほうがいい。
・・・・うん。
うんと答えたが忘れることなど出来る訳がない。しかし忘れろと言ってくれてほっとした。ほっとしても解決の方法はない。でも健吾は何故冷静な態度を取り続けたのだろうと思う。
〈なにか計画があったのか〉
それからの1週間は日常的には忙しい典子に戻らざるを得なかった。生徒には夏休みだが教員にはない。学校から帰ってくると健一との対応はうまくこなしていた。研修日もあったし、健吾も忙しそうで、そのために二人は別々の時間に眠り、典子は悩みを抱えたままだった。
一週間が過ぎても健吾は何も言わない。典子は自分が健吾に対しても去年の夏と同じ状態に陥っていると思った。あの時も健吾に近づけなかった。だが去年と違うのは健吾の態度だった。典子が困っていることを楽しんでいる雰囲気がある。
須貝との関係がそれでいいと言われても、そんな状態では健吾との生活にいつか破綻する。悩んでいることを健吾は知っているのに平気な顔をしている。どうしたことだろう。
そんなことを考えていたら去年の夏の須貝との関係の始まりが広子さんの計画だったことに改めて気が付いた。広子さんなら健吾を動かすことが出来る・・・。二子に行った時に話し合ったのかもしれない。何を話し合ったのだろう?
しかし健吾も広子さんも私が源二に逢うことは認めている。二人が過ごすために家まで空けてくれた。何をいまさら計画する?
私が須貝さんに夢中になるように仕向けている・・・? 私と広子さんの交換を計画しているのか・・?可能性として考えられないわけではない。しかし部下の妻と自分の妻を取り替えるなんて、須貝の社会的信用を落とすようなことをあの賢い広子さんが計画するだろうか・・・どうもこれはあり得ない。
初めての男は忘れられないものよね・・と言う広子の声が聞こえた。初めての男?・・と私が聞いたら女にしてくれた男よ・・・でもそのあと成瀬さんといろいろあったの・・と笑った顔が浮かんだ。
いろいろあった・・・どんなことだった? 同じことが自分に起きている・・? だからもう一度私を源二さんに夢中にさせる必要があったのだろうか?
源二さんは土曜日の晩、私に健吾を忘れてくれと言った。それはダメだと言うと、一晩だけでもと言われてしぶしぶその気になった。その結果の私が今の私だ。これが広子さんの目的? まるで訳がわからない。
訳がわからないが問題はここにしかないと思う。広子さんはとんでもないことを考える人だから・・。源二さんも動かされているかもしれない。でも、その先が読めない。
〈計画を知る〉
土曜日の夕方健吾が帰ってきた。最近は土曜日も仕事が立て込んでいるから出勤する。住宅金融の利率が低く新築の住宅建設が多くなったのと、金持ちが古民家の移築をすることが結構多い。ああ疲れたという健吾にあとでお話があるというとニヤッと笑った。何を笑うのよと言うと、いよいよ家庭騒動が始まるのかという。何を馬鹿なことを・・それより健一をお風呂に入れてよ・・と追い立てた。
健吾は食事のあと野球テレビを見ていた。放送が終了したので健一を寝かせに連れて行った。居間に戻った典子を見て健吾は・・どんな話になるかなという。
率直に聞くけど・・健吾・・。
おう・・。
身構えることはないでしょう・・。
いよいよ典子の話が聞けると思うと面白くて・・。
真面目に聞いて・・。
聞くよ・・。
健吾・・今回の話はまた広子さんの計画でしょう・・。
計画?
この前の土曜日の話よ。
ああ、典子の失敗劇か・・。
なにが失敗劇よ。
昼まで寝ていて・・食事の後片付けもしていなく、シャワーも浴びないでエッチの後の臭いをつけたまま起きてきて・・。
・・そんなことまで聞いたの・・?
広子さんから・・・。
今度のことは面白半分の計画だったのでしょう?
そんな計画じゃないよ・・。
やっぱり計画があったのだ。
あっ・・引っかかった。
前に私を誘導尋問でひっかけたからよ・・。
でも典子は何をわかっている・・?
私を去年の夏に戻るようにしたのは広子さんの計画だった。
何のために・・・?
とぼけないでいいのよ。二子で広子さんと話し合って、わたしをもう一度去年の夏の状態に戻そうとした。
だから何のために・・?
それを聞きたいのは私よ。計画の中味を話しなさいよ。
よく気が付いたな・・・。
何が目的なの・・・?
でもよかっただろうが・・。
ベッドの上のことは話さないと言ったでしょう。
でも社長から聞いた・・。
やっぱり源二さんも関わっているの?
まあな・・。
もう・・・わたしだけのけ者にして。
のけ者じゃない。
じゃあ何よ。
正直に言うと、今度のことは広子さんと俺が二子に行った時にこの計画が出た。広子さんが言うには、典子は去年の夏を卒業していると信じて社長と逢っているがそうではない。いまは問題がないように見えても自覚していないと俺との関係にひびが入る可能性がある。そんなことになる前に・・教育することだと言った。
教育する・・?
お前は社長と距離をとっていると思っているが、心には距離がないことを知らせる必要があると言う。
知らせる必要・・?
一度揺さぶって本当の心を出させる・・。
本心を出させる・・・?
そう・・一度揺さぶられて本心がわかったら解決は自分でつけさせる。それまで放っておくと言う計画だった。
私が健吾と離婚を決意することになってもよかったの?
そうはならないとみんな思っていた。
わからないじゃないの・・。
なる訳がない。社長とも話しているから・・。
ひどいことするのね・・。
そうでもないだろう・・自分のことを正確に知ることは大事なことだ。自分で解決の方向が出ればよいし・・いよいよ困ってくれば相談も自分から持ちかけるだろうと言う。
あの晩相談しようとしたでしょう・・・。
あれは相談ではない。単なる混乱だ。
じゃあ・・いま聞くよ・・健吾。
ああ・・いいよ。
何よ・・偉そうに。
つまり常識を捨てればよいということさ。
どういうことよ・・?
常識のレベルで悩み続けるなら・・・いずれ社長と別れるか俺と別れるかを決断しなければならない時が来る。
常識を捨てて考えたらどうなるの?
簡単さ・・両方とも好きのままでいいだろう。
そんなことってあり・・?
常識じゃないから・・。
単なる言葉の遊びじゃないの・・。
いやそうでもない。
どうして・・・?
広子さんも前にそこで迷っていたらしい・・。社長にも成瀬さんの奥さんにも遠慮しながら成瀬さんに逢っていた・・。だんだん成瀬さんにのめり込んでいく自分を制御できない気がして・・これではいけないと思い切って絢子さんに相談したそうだ。
成瀬さんと一緒になりたいとか・・・?
そんなことではないと思うが・・不安になって・・と言っていた。
私も須貝さんとは一緒になるつもりはなかったよ。
初めは広子さんもそうだった・・でもだんだん違ってきた・・。
一緒になりたい気持ちが強くなってきたの?
正確に言うと社長より成瀬さんが好きになった・・。
それで相談したの・・・絢子さんに・・?
切羽詰まったのだろう。そうしたら常識を捨てて見たらと言われたという。夫以外の男を愛するのはいけないことだと考えるから悩む・・常識を捨てたら悩まなくていいと言われたらしい。
私もそんな気持になってもいいの・・?
そう言うこと。
健吾はそれでいいの・・?
俺と広子さんともそういう関係になりたいから・・・。
そうなの・・・。
不満そうに言うなよ。
いや・・健吾にはちょっと考えられないことだったから・・。
実はもう一つ問題があった。広子さんにしてみれば今回のことは社長とお前の再教育だったみたいだ・・。社長は自分ではわかっているつもりだったのにお前に幻惑されていたと広子さんは見ている。
なんという人なの・・広子さんは。
でも社長は、あの晩の計画はとてもよかった、俺もふっ切れたとか言って笑っていた。
わたしとの最後のセックスの時・・?
そうだ・・。
どうふっ切れたのかしら・・。
これから典子を本当に愛していくつもりだろう。典子もそうなってくれたらわざわざ一緒になる必要はない。
広子さんには一層のこと健吾と須貝さんを取り換えたらという考えはなかったの?
冗談で言ったことはある。でもいまの世の中はそんなことが簡単でないだろう・・・。それに典子は俺と別れるのは嫌なのだろう?
健一のこともあるし・・それに口惜しいけれど健吾も好きだし・・。
口惜しいなんて言わなくてもいいだろう。
広子さんが言うには・・・もともと世間の常識にはないことをしているのだから、いまさら気兼ねなどをする必要はないと言っているみたいだ。
そんなことだったの・・。
まあそういうことだ・・。
そういうことなの・・わかったわ・・。
本当にわかるのはまだ先のことだろうと思うけれど・・。
どういう意味・・・?
典子にとって、社長との付き合いはまだ始まったばかりだ・・男女の関係はこれからだという意味さ・・。
あなた達もそういうこと・・?
俺と広子さんのことか・・そういうことになるかなあ・・。
〈変化する典子〉
突然降りかかった去年のスワップ計画、その結果須貝への傾斜を強めた夏のこと、京都での須貝の思いがけない告白、そして須貝とはセフレだけの関係と思いながらまだ須貝を想い切れていなかった自分の発見・・いろいろのことがあった1年だった。
広子さんは、私が源二さんとの関係で悩むようだったら常識を捨てなさい・・・それができないなら源二を捨てなさいと言っている。源二さんを捨てるより常識を捨てるほうがいい。これからはそういう関係になれる・・。
もう源二さんとどんなに好きになっても健吾に気兼ねなんかしないから・・。いままで健吾のことが心の隅にあって源二さんに安心して抱かれることが出来なかったがそんなこともなくなる。これも新しい男女の関係かもしれないと思う。
未来の社会ではどんな男女の結びつきになるのだろう・・・。社会の仕組みが変われば家庭の在り方は変わり、家庭の在り方が変われば当然夫婦の結びつきが変わる。北欧では結婚の形態が変わりつつある。パートナーとして生活し、婚姻関係にはない人たちが増えている。日本ではまだ多くはないがだんだんそんなになっていく気がする。
パートナーとしての結びつきがそのまま男女の多重関係につながる訳ではないが、単婚社会では見られない関係がその中から生まれて来てもおかしくない。
短期間でそんな変化は起きないと思われているが、そんなことはない。親の時代には純潔という言葉があり、女の子自身がそれを大事にしたと聞いている。いまは結婚までに複数の男と関係するのが普通だ。自分もそうだった。
結婚までに複数の相手と関係することは何も新しいことではない。江戸時代の若者には自由な男女の交流が制度として許されていた。男は夜ばいをして・・女は夜ばいをされて一人前になった。
先進国の法律は、夫婦の関係については一夫一婦制をとっている。それ以外の関係は法律の外のことで、個人的な問題になる。須貝さんとセックスするようになって夫婦間の関係を調べて見たら、1970年代にアメリカの社会学者オニール夫妻が「オープンマリッジ」という本を書いて自由に愛人を作る、社会的、性的に独立した個人を認める結婚のスタイルを提唱していることが分かった。ずいぶん広く読まれたらしいから、この問題はみんな昔から興味は持っていることが分かる。
最近ネットに出ていたから読んだのだけれど、関係者が互いに自由な性愛を持てる関係としてポリアモニーという男女の関係もあるらしい。ポリアモニーは男女の数が異なってもいいが、私たちの場合は二組の夫婦がお互いに自由に行きかうのだから、ポリアモニーというよりグループマリッジというのに該当するのかな。でも共同で生活していないからそうも呼べないわね・・。呼び方はどうでもいいけど、こんなことが言葉になっているなんて知らなかった・・・言葉があるということはそれが存在しているということ・・やっぱりあるんだ・・。
そんなことを考えていたら夏休み期間が終わりそうになった。
学校には毎日出ているが・・授業がないだけに休みはとりやすい。須貝さんに逢おうかな・・・。でももう二週間以上も健吾としていない・・こんな時に須貝さんのところに行くと健吾は気分を害するかな・・・? 常識を捨ててよいと言ったから文句は言わないだろうが、夫婦だから健吾としようか・・・?
優先順位を考えるなんてずいぶん味のない話・・・少し艶のある話がいいなあ・・・。今夜あたり健吾を誘惑しようか。 誘惑なんてなんとなく優雅じゃない・・。健吾は何というのだろうか・・? お前は社長に逢いたいのだろうというに決まっている・・。あいつは皮肉屋だから・・。
〈復活〉
昨夜健一を寝かしつけて、自分の仕事を仕上げたあと、健吾が書斎代わりに使っている部屋に顔を出した。
お暇・・・?
おや・・俺を誘惑するのか・・?
そうだけど・・・悪い?
いや・・。
何を読んでいるの?
京都の書店が出した古民家の雑誌だよ・・・。
そう・・。ちょっと見せて・・。
健吾に近づいて雑誌を受け取った。机を前にして椅子に座っている健吾に寄り添った。健吾は椅子に座ったまま立っている典子の腰に手をまわして引き寄せた。夏の夜もこの時間になると少し気温が下がってきている。白のノースリーブの腋から典子の匂いが流れてきた。外から虫の音が聞こえる。典子は健吾の傍に立ったまま、受け取った雑誌に目を走らせた。健吾の手が典子の腰の周りに動いた。
古民家を扱っている会社の紹介とか・・課題別の特集だ。
古民家を扱っている会社は沢山あるのね・・。
うん・・うちの会社だけじゃないさ。
健吾はこれから本格的にこの分野のことをするの・・?
社長の方針だ・・。
いいな・・いい仕事だと思うよ。
そう思うか・・。
時代を越えて・・いいものを残す。そんなものを扱えるなんて・・・。
施主の要求で不本意なこともあるけれど・・。
あるの?
あるさ・・。施主が古民家についての知識がない場合。俺自身の力量もあるけれど・・。
それでもいいじゃない・・健吾が作っても悪いものは残らないから。
建造物は長期間残るよ。
悪いものは100年もすると消える・・・。いいものは残るけれど・・・。
考えるスパンが長いな・・。でも昔のいいものを壊してしまうこともある・・。
源二さんもそんなことを言っていたわ・・。
社長といろいろ話しているのだな・・・。
妬ける・・?
自慢か・・?
しない・・?
久し振りだな。
言わないの・・憎まれ口。
憎まれ口・・?
社長の家に送ってやろうか・・とか。
言う訳がないだろう。
言うかなと思っていた。
こんな可愛い女の子に誘われて・・言うわけはないだろう。
・・・・なにが女の子よ。
まだ二十歳代で通用するよ。
おだててもなにも出ないよ。
そうだな・・出すのは俺だった・・。
俺・・・?
中に出すだろう・・。
バカ・・・女の子に言う言葉か。
寝室に移って典子は脱いだ。白のバックレースのショーツをつけていた。健吾が・・この前社長のところへ行く時に準備したのか・・と聞いた。
そうだよ・・・。
やっぱり社長は特別だったのだ・・。
それはそうでしょう・・半年ぶりだったのだから。
だから顔色が変わっていたわけだ。
顔色を見ていたの・・?
視線を避けていたじゃないか。
これからは顔色を変えずに行くと思うよ・・・。まあウインクくらいはしてやるよ。
小憎らしいことを言うなあ・・・。
健吾が好きだから・・つっぱりたくもなるのよ。
適当なこと言って・・。でも・・久し振りだな・・。
うん・・。
ショーツを取ると整えられた股間が現れた。健吾は去年の夏に広子が源二の趣味だと言ったことを思い出した。社長に気を使っているな・・と思いながら抱き寄せたら、キスしてきた。手を尻から前に廻して触り、整えたのかと聞いたらウンとうなずいた。社長の趣味だろうというと・・そんなこといちいち気にしないのという。
俺は社長と趣味が違うけど・・。
全部剃ってやろうか・・。
バカ・・いいよ。
アメリカでははやっているよ。
ここは日本だ・・。
健吾と抱き合うと友達と抱き合うみたい。
俺はお前の男友達の一人かよ・・。
だったら悪い・・?
たくさんいるのか・・。
バカ・・本気にするな。
いてもいいのだぜ・・。
オッパイ噛んで・・・・。
噛んだ方がいいのか・・?
ああ・・脚の先まで響く・・。
あそこ舐めてやろうか・?
いや・・。
社長に取っておくのか・・?
健吾・・いちいち気にしないの。
そうだったな・・。
ねえ・・この前私の交遊範囲が拡がった時に、他の男と体の関係が出来ても問題がないとか言ったよね。
うん・・。
具体的にそんなことが起きると考えているの・・?
いや・・論理的に言っただけ・・。
論理的・・?
一般論だ・・典子の世界が広がった時に・・そんなことを認めないなんて言う意味がないと思っただけ・・。
そんなことをしたら怒る・・?
したいのか・・?
そんなことが起きたら健吾との関係はどうなるのかなと思って・・・・。
社長との関係と同じだと言ったはずだが・・。
その時はその人の名前を健吾に伝えるの・・?
特定の人を想定して話を持ちかけているように聞こえるけど・・そうか?
健吾・・乳首のあたりを広く吸って・・・やわらかく・・ゆっくり・・。
社長の方法か・・?
またそんなことを言う・・。
そうだったな・・。
うん・・あっ・・そう・・ゆっくり吸って。
同じように感じるのか?
いまは健吾だけ・・もう・・いちいち聞かないで。
夫に抱かれて他の男を考えるのもいいとか聞くけど。
そんなの・・・一般家庭の主婦のすること。
典子は一般主婦を捨てたのか・・。
捨てた・・。健吾・・・して。
健吾は典子の首筋や腋下へ唇を這わせていたが、典子は自分で動いて腰の位置を決め、健吾のものを握って挿入を促した。健吾が典子に従った。
あっ・・健吾・・やっぱり健吾ね。
社長とは違うと言う意味か・・・?
また・・・変なこと言わないで・・。
変か・・?
健吾しかいないのよ・・いまは・・。
ありがたいね。
健吾は健吾よ・・・大好き。
嬉しいことを言ってくれる。
健吾がまた典子の腋下を舐めた。
そこイイ・・響いてくる・・。
何処に・・?
知らない・・。
典子は健吾の脚に自分の脚を絡めて抱き付いていた。
あまり動かなくてもいいからそのまま続けて・・。
動けと言ってもそんなに絡めていると動けないけどな・・・。
いいの・・いい気持ち・・ゆっくり動いて・・。
言われる通りゆっくり続いた。そのうちだんだん熱気が感じられるようになり、典子は階段を上った。大きな波に揺られているようだといい、しばらくして大空に抜けていくみたいだと言った。そして最初の頂点で典子は健吾に抗うように体を反らして達した。
最初の波が通り過ぎると、典子はまた四肢を健吾に絡みつけ、ゆっくり動いてねと言う。健吾はまた言われた通りゆっくり体を動かしていると、典子は雲を抜けて飛んでいるみたいだといったあと、来たと言って健吾にしがみついた。
何だか二度ともスーッと昇っていったみたい・・。
自然な感じか・・?
うん・・とても自然にいっちゃった。
もっと時間をかけたほうがよかっただろう・・?
家では自然なのがいいよ。いつでもできるから・・。
もう二週間もしていないぞ。
誘ってくれなかったじゃない。
変な顔をしていたから誘いようがなかっただけさ。
これからもっと誘ってよ。
向こうへは・・?
晴れの日・・・度々は出来ないよ。
俺とは褻の日か・・?
そうよ・・・褻とは日常と言う意味よ。健吾とは夫婦だから。
俺だけが褻の日だけじゃ詰まらんぜ・・。
広子さんがいるじゃないの・・。
いや美人の嫁さんと晴れの日があってもいいだろう。
じゃあ・・どこか旅行に行こうか・・?
夏休みは終わったよ・・。
無理したら土日の一泊旅行くらいはできる・・。
何時も忙しそうじゃない。
でも・・健吾が褻の日だけではつまらないと言うなら・・。
じゃあ・・計画しよう・・。
広子さんが今度のことを計画した理由がなんとなくわかった気がしたの。
どういうこと・・。
相手を本当に好きだと思ったら体の反応が違うの・・。源二さんを本当に愛していると自分が納得した時、私の体が自分とは思えない感覚になったのよ、去年の夏でもそうだったことを思い出したわ。きっとそれを教えたかったのだと思うわ。
俺とではそうならないのか・・?
源二さんのことが心に引っかかっていて、集中が途切れることがあった。でも今日はそれが解けてうれしかった。
これまで社長のところに行く時俺のことが気になっていたの?
そりゃあ・・気になっていたわ。
嬉しそうに出かけたくせに・・。
いくら健吾が許しているといっても頭の隅に、悪いなと言う気持ちはあったわよ・・・。いままでいわなかっただけよ。
セックスしている最中でも・・?
うん・・あった・・。
絶頂の時も・・。
バカ・・。
面白いものだな・・。
何が・・。
精神的なものがそんなに影響するなんて。
するわよ・・。
女ってそんなところがあるのかな・・。
広子さんの計画は・・私が須貝さんにのめり込んでいくとやがて健吾との間に亀裂が入ると言ったのは嘘だと思う。私が須貝さんにのめり込んでも健吾と別れるはずがないと広子さんは分かっていたはずよ。
わかっていた?
あんな頭のいい人が私の心が読めないはずがないわ。
でも俺にはそう説明した・・。
そう説明したら簡単だから・・・。
何だ・・俺や社長が踊らされたのか?
そうだと思う・・いやきっとそうだよ。健吾を忘れて須貝さんと愛し合えば別の次元のセックスになると言うことを教えたかったのよ。
そうだろうか・・? 俺には典子のことが気になるからと言ったのだが。
あの人は・・考える次元が違うのよ。
そうだろうか・・。
そうなの・・多分広子さんは男女の愛情関係は法的関係には縛られないと考えているのよ。
どういうこと・・?
夫婦だから愛し合うのではなく愛し合うから夫婦なの。
それは当たり前のことだろう・・。
もっと言えばお互いが愛し合っていれば夫婦でなくてもいいの・・でもそれは相手が既婚者ならその配偶者の理解が前提。その理解がなければどんなに愛し合っていてもトラブルを抱えるから二人はいい関係にはなれないということ・・。広子さんはそんなことを教えたかったのだと思う・・。だから私は健吾も大好きで、しかもこのことに理解があるから丁度いいの・・。
そんなところだろうな・・。
話は違うけれど健吾は広子さんと逢っているの?
報告しなければいけないのか・?
だって・・源二さんはみんな話すみたいだから・・・。
話す必要があるのか。
聞きたい気もするけど。
ここのところ仕事が忙しくてあまり逢っていないのだ・・。
可愛そうじゃない・・。
広子さんが・・・?
健吾に逢いたいみたいだよ。
あの人のことを心配することはない・・。
どういうこと・・?
気が向いたら成瀬さんのところにも逢いに行っているよ。二子の成瀬さんの家にお邪魔した時の会話からわかったのだけれど・・。
そんな話だったの。
うん・・。
そのことについて源二さんは・・?
気にしていないみたいだよ。
健吾はそれでいいの?
社長のことだ・・どうでもいいじゃない。
いいのね・・。
どういう意味・・・?
これからは私が広子さんみたいになるのよ・・。
好きな時に社長に逢いに行くと言うことか?
そうなるでしょう・・。
広子さんが家に居ても乗り込むのか・・?
乗り込むだなんて・・。広子さんに話はするわよ・・。
広子さんが居てもいいのか・・?
この前・・見られちゃったし・・もう気にならないと思う。
その時俺も一緒に行ったら・・?
えっ・・あなたは広子さんと・・?
そうなるけど・・。
いやだ・・広子さんそんなことを考えていたのかしら・・。
次元の違う人だから・・。
それはいやよ・・いくらなんでも・・。
いやか・・?
好きな人といる時はその人だけよ・・。そこに健吾が居たら気持ちが悪い・・。
なんということを言うんだ・・・亭主に向かって気持ちが悪いだなんて。
第6話 完
第6話で「小田原物語」の第1部は終わりました。これから典子がどんなに変わっていくかわかりません。典子の気持ちが変化して典子が新しい世界に入っていった時にまたお話します。坂口健吾